ひらふスキー場誕生50年の思い出

NISEKO Mt RESORT Grand HIRAFU

2012年1月

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スノーボードに加えて、1990年代のひらふで重要な動きがもうひとつありました。そう、フリースタイルスキーのモーグルです。その源流にいるひとり、アウトドアセレクトショップNiseko343を経営する小田島勝彦さんが語ります。

 

 

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 私は1951年に札幌で生まれました。物心つくころには、冬が来ると豊平川の土手でジャンプの真似事をしたりして遊んでいました。青春は、中学、高校、大学と、アルペンスキーひと筋だったのです。札幌オリンピック(1972年)をはさむ北海学園大学スキー部での4年間は、シーズンごとにひらふ坂のさかえ旅館での合宿が恒例でした。ほかの宿も、全国の大学や有名企業の合宿で大にぎわいでしたね。北海道の企業では、国鉄や電電公社などとゲレンデでよく顔を合わせていました。

 

 練習の甲斐もあり、全道大会で入賞するようになりました。そして旭川で開かれた北海道学生選手権(北海道インカレ)での出会いがのちの結婚にもつながります。しかし大学を卒業するとき、私のスキーはまだその先を求めていました。そこで卒業しても就職せずに、アルバイトをしながら旅行資金を蓄えました。そうして、スキーへの自分なりのけじめをつけようと、ひとりでウィスラー(カナダ)に行ったのです。飛び込みでしたが3カ月ほどスキーパトロールの仕事につくこともできて、そこで全く新しいスキーと出会いました。自分のスキー観が大きく変わる体験でした。

 

 そこで見たのは、パウダースノーを思いのままに滑るフリースタイルスキーで、後にその種のスキーをテーマにした映画の題名からホットドッグと呼ばれるスキーだったり、新雪が降ったら楽しむパウダースキーでした。それまで日本で追求されていた、厳密なフォームでひたすらタイムや精度を競うといったスキーとはまるでちがう滑りに、目を開かれました。
 こんなに自由なスキーがあるのかという驚きと、でも、そうだ自分はこんなスキーがしたかったんだ、という気づきです。帰国すると後のテイネハイランド(札幌)に勤めたあと1979年、ひらふでペンションの売り物件を買ってロッジ・ロンドを開業しました。

 

 1992年のアルベールビルオリンピック(フランス)に、日本人初のモーグル代表となった山崎修 君は、うちに数シーズン居候(ペンションを手伝いながらスキーに打ち込む生活)をしていました。やがてモーグルの宿というイメージができて、たくさんの選手たちがやってきます。のちにロス・フィンドレーさんと結婚する陽子さんも、そんな仲間でしたね。「*1ニセコB&J」というモーグルチームを作りました。
 当時モーグルはゼロからの出発に近かったので、自分もよけい夢中になることができたのだと思います。ここから全国に、新しいスキーを広げていこう、と。妻を含めて居候スタッフの10人近くが、ナショナルチームのメンバーになりました。
 そのころは、とにかくスキーに打ち込むためにペンションの居候をする若者がたくさんいて、受け入れる側も彼らを積極的に応援していたものです。

 

*1 出身者に吉川空(ナショナルチームw指定)、現在も北海道スキー連盟の強化指定選手が5人在籍

 

 


 

 小田島さんたちは91年4月、ひらふではじめてのモーグルスキー大会「スーパーバンプスニセコCUP」を開催。春スキーを掘り起こす狙いもあったこの初回大会の女子で優勝したのは、のちに長野五輪(98年)金メダリストとなる、中学1年生の里谷多英さん。男子はNiseko343店長の伊藤篤 君(元モーグルナショナルチーム、コーチ)でした。さらにこの大会から、ソルトレークオリンピック(2002年)に出場した中元勝也などが巣立っていきました。

 


 

 

 でもいまと全くちがって80年代のモーグルは、スキー場に理解されず苦労もありました。端的にいえばピステンとの戦い(笑)。スキー場側は、せっかくいいこぶができでも、パトロールがこれを見つけるとすぐ削りにかかる。いたちごっこの連続だったんです。万全の協力をいただいている現在では考えられない、なつかしい話です。

 

●Niseko343
倶知安町山田170
TEL:0136-23-0343
http://www.niseko343.com

 

 

 

 1990年代半ば、スノーボードのブームが一気に広がります。
 週末になるとひらふには、本州からのツーリストのほかに、真新しいボードを抱えた若いボーダーたちが札幌方面から押し寄せました。本州からの中学・高校の修学旅行でもスノーボード体験を取り入れる学校が現れ、生徒たちの人気を博します。やがて長野オリンピック(1998年)で正式な五輪種目(大回転、ハープパイプ)となったことも、強力な追い風となりました。98年にひらふで日本スノーボード協会(JSBA)公認のスノーボードスクールを開いたのが、倶知安っ子の木村聖子さんです。

 

 

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 子どものころ冬の遊びは、もちろんすべてスキーでした。ここで生まれ育った子どもに、ほかの選択肢はありませんからね。でもボードが注目されはじめたころ、ちょっと変化がほしくて乗ってみたのです。たちまち夢中になりました。スキーはスロープにただ立っているだけで一応滑りますが、ボードはそうは行きません。それがビックリするほどおもしろかった!
 ルスツリゾート(虻田郡留寿都村)には早い時期から、関 規明さんが開いている公認のスクールがあったので、そこで基礎を学びました。

 

 滑れば滑るほど面白くて、すぐ公認インストラクターの資格を取って教える側にまわりました。ほどなく関さんに替わって校長を務めることになりました。振り返ってみればそこまであっという間でしたね。
 7年ほどたって、でもやはり地元でボードと関わりたくなり、ひらふに戻って日本スノーボード協会(JSBA)公認のスノーボードスクール、「マザーグース」を立ち上げました。ひらふでは玉井 太朗さんがJSBAの公認校を開いていましたが、それにつづくスクールでしたね。

 

 私は、基礎を大事にしながら、ふるさとにスノーボードをしっかり根づかせようと考えました。道具の選び方、そしてブーツの履き方ひとつで滑りの感覚は違ってきますからね。そして、道具を大事に扱うこと、子どもでも荷物は自分でもつこと、きちんと挨拶をすること。最初にこういうポイントを重視しました。上達すれば、パウダースノーのひらふでこそ、ボードの魅力が満喫できます。こうした考えは、今もまったく変わっていません。

 

 はじめての方には、とにかく楽しい時間をもってもらおうと心がけました。だから校名も、スポーティな競争イメージとは逆の、女性的でやさしい「マザーグース」(イギリスの童謡集の名前)としたのです。あまり細かいことを言わずに、とにかくターンを早く身につけてもらう。スノーボードの世界をある程度体感してもらえば、あとは自然に欲が出てくるでしょう。

 

 ひらふの基盤になるのは、倶知安の子どもたちです。ですからスクールの中に、「じゃがボーダーズ」というジュニアチームも作りました。はじめはみんな、スポーツというよりヤンチャな遊びです。それで良いんです。その中からは、いまソチ五輪(2014年、ロシア)を狙う渡辺 大介君なども育ってくれました。

 

 開校してしばらくすると、地元でスクールを開くことは、単にゲレンデでビジネスを起こすだけじゃない意味を持つのだな、と感じました。リフト会社やホテルをはじめいろんな方々との関わりが増え、ひらふや倶知安のことを話し合う機会もでてきます。JC(青年会議所)の活動にも加わり、スクールの運営を通して私は、生まれ育ったまちをさらに深く知ることができたと思います。

 

 

日本スノーボード協会公認スクール「マザーグース」
倶知安町南4条東5丁目
TEL:0136-23-3173
http://www5.ocn.ne.jp/~goose/

 

 

 

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 函館で生まれ育った私は、子どものころからスポーツや自然が大好きでした。高校の部活は山岳部で、テニスにも熱中しました。函館ドック(現・函館どつく)に就職すると、仲間とテニス部を作りました。スキーを本格的にはじめたのは、就職してから。当時のドックは時代の先頭を走るようなたいへん勢いのある会社で、仕事以外でも多才な人がたくさんいました。その中でスキー部も、国体選手がいるくらい盛り上がっていたのです。
 はじめは部の友人から誘われて軽い気持ちで横津岳に行ったのですが、思ったよりうまく滑れなくて、ちょっとくやしい思いをしました。まだリフトがない時代ですから、シールをつけて登って、思い思いに滑り降ります。でもこうしてマイペースで楽しめるのが、自分に向いていると思いました。函館近郊では、ニヤマ(七飯町)にもよく行きました。シーズンのスタートは、中山峠。当時は11月の頭から滑ることができました。

 

 当時リフトができたばかりのニセコはあこがれの地で、スキー部では毎年滑りに行っていましたが、最初のころ、お前はまだ無理だ、と連れて行ってもらえません。3年目でようやく行けました。でも第2の壁で大転倒したことをおぼえています。それからというもの、仲間たちとのひらふ通いがはじまりました。
 函館を夜中の汽車で出て、狩太(現・ニセコ)駅か倶知安駅で降りて、比羅夫駅で停まる各駅停車に乗り換えます。駅からスキー場行きのバスが出るのが8時。その2時間以上前に着いてしまうので、着くとすぐ歩き出しました。駅でただ待っているより、少しでも早く滑りたいですからね。よくやったなと思いますが、女性でも自分の道具を自分で背負って歩けなければ、スキーはできなかったのです。帰りの汽車は夕方の4時くらい。スキー場から駅までは、スキーと歩きです。

 

 夏や秋には羊蹄山やニセコの縦走を楽しみました。ひと汗流すのは、山田温泉。女友だちと2人で羊蹄山に登り、その足で山田温泉に行こうとしたのですが、途中で暗くなったので温泉の灯りをさがしてようやくたどり着いた、なんていうこともありました。そんなときでも畳の上ではなく、温泉の前にテントを張って寝ました。私たちにとっては、それがふつうだったのです

 

 さて冬の私のニセコ通い。山田温泉や望羊荘が常宿でしたが、地元の人との出会いや交流もはじまって、そんな中でのちに結婚する浦野と出会いました。浦野の家はひらふの農家で、スキー場のリフト設置に合わせて開業した7軒の民宿のうちの一軒でした。「民宿浦野」という名前ではじめて、1964年からは「白雲荘」となります。出会ってから結婚してスキー宿の嫁になるまで、10年以上もかかってしまいましたが、その間スキーやスキー場のことをもっと知りたくて、いろいろな土地に出かけていたのです。1971(昭和46)年にはヨーロッパ・カナダのツアーに参加しました。札幌オリンピックの前で、当時はスキーのために海外に出かけるのは、まだ珍しいこと。北海道からの参加者は私ひとりでした。行ってみて感じたのは、向こうではみんなとても自由に滑っているなぁということ。日本では基礎スキーが唯一の教科書みたいで、型にはまりすぎている。これではまだまだ日本のスキーは世界に通用しない。そう思いました。

 

 73年には、カナダでヘリスキーをしました。新雪だから女性と子どもにはムリ、と言われたのですが「ぜったい大丈夫だから!」とねばって頼んでヘリに乗り込むことができました(笑)。そのとき、スキーパトロールの人たちの毅然とした仕事ぶりに感銘を受けました。また、ロッジへの交通アクセスなどもとても合理的に整っていて、感心しました。国内では、白馬(長野県)に1シーズンいた年もありました。
 結婚前の浦野も、ニセコ高原観光の大川所長からいろいろなことを必死に学んでいました。彼は所長を大川先生と呼んで慕っていましたね。

 

 いろんなスキー場を見て歩くと、ひらふの素晴らしさと同時に、欠けているところも分かってきます。1970年代前半のひらふは、まだスキーしかなかった。アフターの楽しさがないんです。そこで結婚してひらふの住人になると、まず居酒屋を作りました。地域にないものを少しずつ作ろう、その先がけになろう、と考えたのです。当時は夏の楽しみも少なかったので、主人の尻を叩きながら(笑)、テニスコートも作りました。こうしたことが呼び水になって、その後いろいろな店が生まれていきます。
 それから30年以上たって、いまのひらふは、スキーのまわりにいろんな楽しみがあるまちになりました。ニセコのほかのスキー場から、アフタースキーを楽しみに来る人も少なくありません。

 

 主人は逝ってしまいましたが、いまは息子がしっかり後をついでくれています。ここ10年でまた急速に変わりつつあるひらふを思うと、これからの世代にとっては、私がひらふの住人になったころと同じような可能性が、目の前に大きく広がっていると感じています。

 

 

 

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 1968(昭和43)年から2007年まで、「旅館さかえ」を経営していました。いまは女房とふたりで、「居酒屋さかえ」をやっています。

 

 生まれは日高の三石町字歌笛。18歳のとき札幌で板前の道に入りました。それから調理師免許をとって羽幌や岩見沢で働き、函館の湯の川に行きました。そこで、ひらふの大雪閣で板前をさがしているから行かないか、と誘われたんです。まずその夏に、どんなところかと見に行きました。お客が全然いなくて、閑古鳥が鳴いてましたよ(笑)。当時のひらふは、半年はほんとになにもないところ。ひまな季節は遊んでていいから、と言われて転職を決めたのは、1965(昭和40)年でした。確かに夏場は、国鉄や役場、支庁関係の宴会がときどきある程度だったんです。

 

 そこに3年ほどいて、29歳でかみさんも見つけて、同じひらふで旅館をはじめました。なんとかお金を工面して、8室からのスタート。ひらふ坂の途中、いまのひらふ亭さんの向かいです。1968年当時、リフトができて7年経っていましたが、宿の数もわずかで、ひらふはまさにこれから、というところ。電気もリフト用のものを分けてもらっていて、われわれは電気代をニセコ高原観光に払っていたんです。ひらふ坂も、第1駐車場ができる前で舗装されていませんから、春先にはどろんこ状態。山田温泉やリフト会社が持っているジープでしか上がれませんでした。

 

 サンモリッツリフトの寺岡四郎さんが会長で、永江勝朗さんが現場をまとめる「ひらふスキー場振興会」という集まりがあったんです。リフト会社や宿がそれぞれ会費を出して予算を作って、内地に視察に出かけたりしました。地区として宣伝パンフレットも作りました。そのほか除雪をどうするとか、いろんなことをみんなで話し合ったものです。

 

 ひらふで板前料理を出すところはほかになかったので、うちは料理を売りものにしました。その一方で、一部の民宿のおかみさんたちと一緒に料理の試食会をやったりしました。すべてが新しい土地では、自分のことばかり考えては商売になりませんからね。

 

 でも開業して5、6年は厳しかったです。シーズン中は函館時代の先輩や仲間が来てくれたり、リフト会社が宴会に使ってくれたりもしましたが、夏は女房に旅館を任せて、洞爺の温泉街で働きました。出稼ぎです。
 1970(昭和45)年にここで国体があったとき、青森県の選手団が泊まってくれたんです。そこから縁ができて、その後も青森の方がたくさん来てくれた。シーズン終盤、八甲田で春スキーをする前にひらふで滑る。そんな方がけっこういたんです。そうこうするうちに大手航空会社のスキーツアーがはじまって、世の中にスキーブームがやってくる。ようやく商売の基盤ができていきました。JALのスチュワーデスさんとか整備士さんなども、よく来てくれました。

 

 1980年代の半ばはスキーツアーの全盛時代。高原リフトとアルペンリフトが毎年のように競い合ってリフトを伸ばして、ほんとうに活気がありました。うちの常連さんたちは仲が良くて、スキークラブ(ひらふスキークラブ)を作りました。今でもちゃんと続いていますよ。
 でもそのころ、宿の中にはどうかするとお客さんじゃなくて、ツアー会社の方を向いて仕事をしていたところもあった。そういう宿は、ブームが去ると苦労していましたね。宿は、お客さんとの人としてのつながりをなくしちゃダメです。

 

 私のスキー歴ですか? 来たころは、湯の川にいたときにニヤマ高原で少し滑ったことがある、という程度でした。ニセコは上級者しか行けない所だと思っていた。ここに来てからは、せっかくだからと挑戦をはじめたんです。若かったし、シーズン中は忙しくても一日一回は滑ろうと決めて滑っているうちに、どんどん熱中しました。朝、お客さんをゲレンデまで案内していっしょに滑って、午後はあいた時間に自分ひとりで滑ったり。ゲレンデにいいお手本がいっぱいあったので、上達できたと思います。やがてスキー検定の1級をとることもできました。

 

 旅館は40年やりました。増築を繰り返して35室くらいまで大きくしましたが、そろそろ全面的にリニューアルしなければならない時期を迎えて、考えました。また借金を抱えて旅館をするよりも、もうそろそろ、少しのんびり暮らそうじゃないか。若いときは家族でがむしゃらに働いたんだから、と。そして旅館の土地を売って、近くにこの居酒屋兼住宅を建てたんです。いまは、冬は一生懸命働きますが、夏は弁当や予約のお客さんだけです。

 

 子どもは4人で、孫が5人います。みんな倶知安で暮らしていますから、自分は幸せ者だと思います。三男坊は同じひらふでスープカレーの店をやっています。

 

 

 

1960年から今日まで、ひらふには全国の若者がおおぜい訪れ、やがて移り住む人々も増えていきます。ひらふ坂で人気の居酒屋Bang-Bangのオーナー齊藤正信さんも、1970年代に道外からやって来た一人でした。

 

 

masanobu_saito.jpg  佐賀(九州)の出身で、北へ北へと旅をつづけるうちにひらふと出会いました。
 道東の尾岱沼(おだいとう・別海町)の漁師さんの手伝いをずっとして、それが終わるとスキーを覚えようとひらふにやって来たんです。山本由紀男さんの「ゆきやま山荘」が立ち上がった年(1976年)。『白雲荘』でバイトをしながらひと冬夢中ですべりました。どんどん上達していくのがおもしろくて仕方なかったですね。いろんな土地からいろんな人が集まっていて、とにかく毎日が新鮮でした。そのうち ああここに住みたいな、と思いました。

 

 でも若かったし、旅の虫は収まりません(笑)。ひらふに腰を据えたのは、それから4年近くイギリスやフランスで暮らしたあとのことでした。
 外国語と料理とワインを学びたかったのです。バーミンガム(イギリス)、パリ、ブルゴーニュなどで経験を積みました。帰ってきてニセコ高原ホテルで働きながら、ペンションをやろうと考えました。ところが予想を超えるペースでペンションが増えていて、これじゃあ過当競争になるぞ、と思いました。一方で、ひらふで働く人たちが飲みに行く場所はあいかわらず少ない。ならば居酒屋をやろう、と。それがBang-Bangのはじまりです。ホテルを辞めるとき、上司に引き留められたのですが、「僕には夢があるんです!」なんて言ったことをおぼえています(笑)。
 かつてバイトをした尾岱沼の漁師さんには、そのときから現在まで、魚の仕入れ先になってもらっています。

 


 

齊藤さんがヨーロッパに旅立つ前に知り合い、ニセコ高原ホテルに勤めていたのが、敏子夫人。敏子さんは居酒屋開業当時のことを、とにかく目の回る忙しさだったと言います。
「早い時間はスキー客、遅くなるとホテルやペンションの従業員たちが来てくれました。どうかすると午前2時とか3時まで帰ってくれないのです。商売としてうれしいのですが、ほんとに困りました(笑)」

 


 

 僕たちはスキーを滑りたかったからね。いまはビジネスのためだけにひらふで暮らす人も増えていますが、僕たちはまず毎日スキーを滑りたかった。ここに暮らしてスキーをするために、僕たちふたりは店をはじめたんです。
 スキー好きのオーナーの店には、スキー好きが集まります。従業員もそうですね。そんな若者の中には、テレマークスキーヤーの高梨 穣(ゆたか)さんのように、うちでバイトをしてひらふで暮らすことを決めていった人たちがいます。

 

 Bang-Bangのとなり、ひらふ坂に面した店も切り盛りするようになったのは、13年ほど前。はじめは借りて、その後買い取りました。今はBang-Bang の姉妹店、Bang2として営業しています。

 スキーシーズン中のひらふは、本当にいろんな店が切磋琢磨して、活気あるまちになります。飲食店ですから、おいしいのは当たり前。私はできるだけ、国籍も、常連かそうでないかも問わず、すべてのお客さまに声をかけます。ちょっとした会話がお客さまの印象に残って、翌年、「ほんとは長野に行こうと思ったけど、また来ちゃいました」なんて言われることもあって、そんなときはほんとうにうれしいですね。

 

 私も50代後半になって、ビジネスも生き方も、若いときより自然体でいられるようになったと思います。青春時代の旅やいろんな経験がいまになって生きてきた、といえるかもしれません。ひらふも私たち夫婦の人生も、お楽しみはまだまだこれから、という気持ちです。

 

●Niseko Bang-Bang
倶知安町字山田188-24 グランヒラフスキー場
TEL:0136-22-4292
http://niseko.or.jp/bangbang/

 

 

 

ひらふの人気店「グラウビュンデン」を経営する渡辺淳子さんは、1961年にひらふにリフトを開業した(株)ニセコ高原観光の初代事務所長、大川仁吉さんの次女。ひらふ育ちの淳子さんにお話しをうかがいました。

 

 

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 ワタシは三人兄弟の一番下。一家5人が神奈川からひらふに移り住んだのは、父がニセコ高原観光の現地責任者になってリフトを立ち上げた、1961年の秋でした。そのときワタシはたったの1歳。ですから自分のふるさとはひらふなんです。

 

 物心つく前から、冬の遊びはもちろんスキーでした。中学生のころ、大手航空会社のスキーツアーがはじまりました。毎年テレビや雑誌の広告が華やかでした。中3のとき、スキーヤーのひとりとして広告のモデルになったんです。その後、リフト会社の所長の娘ということもあり、滑りのシーンならいい娘がいるよ、という感じで、重宝に使われるようになりました。そうして広告制作の現場にふれるうちに、映されるよりも映す方、作り手側に興味がわいてきました。みんなセンスが良くて遊び心をもった、カッコイイおじさまの世界(笑)。自分もこういう世界で働きたい!ファッションが大好きだったので、スタイリストになりたい、って考えるようになりました。

 

 高校を卒業すると、東京へ。ひらふの仕事に来ていたスタイリストさんの事務所でバイトをしながら、スタイリストをめざして専門学校に通いました。両親も、お前がやりたいのならがんばってみろ、と言ってくれて。卒業後は、数え切れないほど電話をかけまくって(笑)、なんとか就職。4、5年経験をつんでから独り立ちしたんです。

 

 そのころは、アンアンやノンノといった雑誌が大人気。やがて、新しくて刺激的な仕事にも出会えるようになりました。そしてやって来たのが、スヌーピーをキャラクターに使ったスキーツアーの仕事。10代のワタシがスキーヤーとして関わった広告に、今度は裏方のスタイリストとして参加したのです。う〜ん、感慨深かった。セールスポイントは、なんたって「滑れるスタイリスト」!(笑)

 

 日本の経済にとても元気があった80年代。スキーのほかにもいろんな分野の仕事がありました。いまならデジタル技術で合成できるようなシーンでも当時はできませんから、年に6、7回は海外ロケへ。カー・ラリーのマネージメント会社にいた、今の主人と出会ったのも仕事の現場です。優秀な写真家やアートディレクターたちと大手企業の広告を作っていく世界は、10代のころのあこがれでしたし、充実した毎日でした。いろんな国のいろんなすばらしい土地にも行けたし。

 

 でもどこに行っても、いつも心のどこかにはひらふがあったんです。一見華やかな世界にいても、結婚して子供を産んで、ワタシはいつかひらふに帰るんだろうな、と思っていました。理屈じゃなく、なんて言えばいいのかな・・・。

 

 24歳で結婚して、主人にも「いつか北海道に帰りたいんだ!」って宣言していました。でも先に北海道に移ったのは彼の方なんです。ホテル日航アンヌプリ(現ニセコノーザンリゾート・アンヌプリ)の開業(1985年)のスタッフ募集に応募したんです。

 

 ワタシも東京を引き揚げる用意をしながら、離れた暮らしがしばらく続いたのですが、1990年の暮れに泉郷にグラウビュンデンをオープンさせました。当時のひらふは、新しい感覚のペンションが建ちはじめていましたが、地域に開かれた、誰でも気軽に立ち寄れるおしゃれな場所がほとんどなかったんです。だからスキーヤーがゆったりおしゃべりが出来る居心地の良い場所をワタシが作ろう、と。ネーミングは、サンモリッツ(スイス)のある州の名前から。倶知安町はサンモリッツと姉妹都市の間柄にありますが、1964年にその提携が結ばれたとき、父も向こうに行ってひと役買っているんです。ドイツ語ができたので、お役に立ったそうです。父が大好きだった娘として、ぜひつけたかった名前でした。

 

 オープンしても東京でのコマーシャルの仕事があると、出かけていました。ほんとうの意味で腰を落ち着けたのは、1994年の2月から。スイーツのメニューや扱うグッズも、それから少しずつ充実させていきました。

 

 いまでは国内はもちろん世界のあちこちから、いろんなスキーヤーやボーダーが、「やぁ元気?! 」って来てくれます。ふたりの子どもものびのび暮らしています。特に長男の大介は、スノーボード・クロスで、世界を舞台に戦っているんです。

 

 いまのひらふと私たちを、父に見せたいなー。そんなことをときどき思います。

 

 

●グラウビュンデン
倶知安町山田132-26
tel : 0136-23-3771

http://graubunden.jp/wp/

 

 

 

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人間が生身の身体と最小限のツールで自然のふところに分け入り、重力の恩寵だけで最もクリエイティブな生き物になれる遊び--。『ニセコパウダーヒストリー』制作のために数十人の方にお話をうかがった日々は、そんなスキーやボードの定義を、あらためて味わってみる日々でもありました。

 

イワオヌプリの硫黄鉱山やレルヒ中佐の来町にさかのぼるまちの歴史をひもときながら、僕はヒラフがスキーによって見いだされた特別な土地であることの意味に、考えを巡らせていました。

 

スキーというワンテーマによって、ヒラフの地域史は、額縁や資料庫に収められた過去のお宝ではなく、現在と未来に直結してイキイキと呼吸をする運動体でありつづけています。
僕にとって、この本に関わることができた経験は、いつまでも色あせることのない糧となるにちがいありません。
この機会をくださった刊行委員会の皆さまをはじめ、ご協力いただいたすべての方々に深く感謝申し上げます。

 

 

2011.12.17
ノンフィクション・ライター  谷口 雅春

 

 

 

倶知安ネイティブのプロ・スノーボーダーを紹介しましょう。


hiromasa_ihara.jpg 僕は1980年に倶知安に生まれました。22才でプロライセンスを取って、現在は雑誌やDVD、イベントなどで活動しています。

 倶知安の子どもはみなそうですが、雪あそびはまずミニスキーやソリから。小学生になってやがてスケートボードに乗るようになって、その延長でスノーボードと出会いました。中3の春、ひらふにあったスノーボードショップでボードを買って、ビデオを見ながら独学で滑りはじめました。それからは両親があきれるくらい熱中していきます。

 次のシーズンの3月、スノーボードジュニア世界選手権が白山一里野温泉スキー場(石川県)で行われ、力試しに挑戦しました。

 ひらふではほとんどできなかったハーフパイプ競技で、親はすごい世界を知ったら熱が冷めるんじゃないか、と思ったようです。でも僕は、「力いっぱいがんばってこい!」と応援してくれたと思った(笑)。そしてこのたった2日間で、自分でも驚くほど成長しました。そして直後に白馬乗鞍であった全日本のユース(ハーフパイプ)で優勝しちゃったんです。

 

 両親もさすがに驚いたようです。そのときのボードは、札幌のスーパーマーケットで買ったもので、いわゆるメーカーものではありませんでした。倶知安農業高校2年生のシーズン、フィンランドで行われたワールドカップにも出場しました。子どものころから運動神経は良い方で、スノーボードのほかにノルディックスキーにも熱中していましたし、高校では野球部のキャプテン。集中力にもちょっと自信がありました。ボードにのめり込む日々が続きました。

 

 でもだんだんと、人と競うだけではつまらないなと思うようになったんです。後輩の中井孝治君が出てきてスノーボード競技はさらに盛り上がっていったけれど、僕はなんだか、ポイントを競うだけでは満足できなくなりました。もっとなんというか、自分を表現する手段としてスノーボードを考えたかった。だからやがて競技の世界から雑誌や映像の世界に舞台を移しました。アメリカで写真家の花坂孝さんと会って意気投合したことも大きかった。やがて、スノーボードはアートなんだ、って確信したのです。つまり山と雪は白いキャンパスで、そこに自分が何を表現するか。その一瞬を切り取ってくれるのが、写真家です。

 

 2008年の暮れ、自分を表現するもうひとつのメディアとして、倶知安の駅前通に「マニャーナカフェ」をオープンさせました。マニャーナとは、スペイン語で「明日」の意味です。

 ボードを脱いでも、ひとりの大人として社会と関わっていく基盤がほしいと思いました。店の内外に、スノーボードの世界観はあえて出していません。仲間うちだけでわいわい盛り上がる店にするよりも、まず地元の人に日常的に通ってもらう店にしたかったから。倶知安ではよく「山の人」「まちの人」という言い方をします。僕はこのカフェで、それぞれの人が気軽に交わってほしい。そのためにも、いまよりさらに、まちの人に山に入ってほしい。そしてここから世界に向けて何かを発信できたら、と思っています。

 

 仕事で海外のいろんなまちを訪ね、たくさんの刺激を受けるたびに、倶知安のことを考えます。21世紀になってオーストラリア系の人びとが移り住むようになり、彼らから刺激を受けて倶知安は少しずつ変わってきた、とも感じています。倶知安で生まれ育った人間として、山で積み重ねられてきた人と雪の歴史を大切に受け継ぎながら、その上で、このまちに何か新たな刺激をもたらしたい。カフェに集まるいろんな人の力を借りながら、僕はこの店でも、自分なりの何かを表現していると言えるかもしれません。

 

 

● 井原寛公さんのブログ
http://iharahiromasa.jugem.jp/

 

●マニャーナカフェ
倶知安町南1条西2丁目4-2
tel : 0136-22-3735
http://lapulife.com/cafebar.html

ブログ更新再開!

new_gondola.jpg2011年12月17日にひらふスキー場(現グラン・ヒラフ)がスキーリフト営業開始50周年を迎えることを記念して開設した当ニセコひらふおもしろ歴史ブログですが、12月10日にヒラフゴンドラがリニューアルオープン、同時に新マウンテンセンターもオープンし、まさに、50周年を期に次のステップを上るひらふの新シーズンの幕開けとなりました。

h1-jp.jpg h1-en.jpg
2009年の12月にはじまった当ブログも36編を数えるにいたりましたが、この度、その取材を基にし、さらに詳しく纏め上げた単行本「ニセコパウダーヒストリー」が完成いたしました。
当ブログ更新が一時立ち止まったのは、実はこの本の刊行作業に没頭させて頂いておりましたのがその理由です。ブログ更新を待たれていらっしゃいましたファンの方々には深くお詫び申し上げます。
この「ニセコパウダーヒストリー」は、日本語版、英語ダイジェスト版の2種類を発行し、2011年12月1日より発売いたしております。
ホテルニセコアルペンなどグラン・ヒラフ内の売店及び道内主要書店、amazon.co.jpなどでお求めいただけますので是非、お手にして頂ければと思います。


また、ひらふゴンドラ乗り場駅舎1Fには、この本の内容に準じた「ニセコパウダーヒストリー展示室」を開設し、パネル展示と、同名の動画上映も行っております、是非、お立ちよりください。

●開設期間:2011年12月10日〜2012年3月31日
●開設時間:9:00〜16:00
※入室無料

 
 
 
 
_MG_9499.jpg 僕が生まれ育ったのは、神奈川県の大和市。1969(昭和44)年生まれですが、家のまわりにはまだ雑木林や遊べる川があって、小学生のころは友だちとそんな世界をかけずり回っていました。冬はたまに雪がふると、ミニスキー。少年時代のヒーローは、植村直己と星野道夫でした。大自然や冒険的な世界へのあこがれから、北海道にも行ってみたいと思っていました。
 中学高校と夢中になったのは、自転車(ロードバイク)。仲間とあちこちにツーリングに出かけました。特にパスハンティング(峠越え)が好きで、丹沢のヤビツ峠なんかに通ったものです。自転車の魅力は、なんといっても、体ひとつで日常を超えたスピード感が楽しめること。これはスキーとも共通しますね。ダートだってタイヤだけ換えて、ロードタイプにこだわっていました。
 高校卒業後すぐに北海道に来ました。知り合いの伝手(つて)で日高の軽種馬牧場で、1年間働きました。その後、スキー場でバイトをしながらスキーを始めます。初めに行ったのはルスツリゾート。翌年からニセコで働きながら滑るようになります。
 
 そもそもスキーを始めたのは、高校を卒業してから。初滑りをしたのは車山高原(長野県)。とにかく転んでばかりで、楽しむどころでは無かったです。ニセコで働くようになってからもスキーに取り組みますが、なかなか上達もせず楽しめるようになりませんでした。スキーに挫けそうになっていた頃、友達にスノーボードをすすめられて始めます。スキーとは違いすんなりと滑れるようになって行き、すっかりのめり込みました。バブル景気まっ盛りの当時、流行っていたスキーはとにかく派手で、あまりそういった世界に興味を引かれなかった僕にとって、スノーボードは魅力にあふれていました。既成概念に捕われない独創的な楽しさ、パウダースノーに全身を包まれ滑る時の浮遊感。まだ数えられるくらいしかスノーボードをしている人もおらず、午後になってからでも、どこもかしこもノートラック。一日中パウダー三昧でした。
 ひらふで住み込みのバイトを見つけて(齊藤正信さんのBang-Bang)、ひたすら滑りまくったんです。1991年だったと思います。一緒に滑る仲間のほとんどはスキーでした。滑れるようになって行くにつれ、行動範囲が広がって行きますが、スキーヤーについて行く事が出来ません。
 そんなときテレマークスキーを知ったのです。始めて見ると普通のスキーよりも以外とうまく滑れました。斜度の緩いところ、雪の深いところ、林の中、ボードでもがいていたところでも軽々と抜けて行けてビックリしました。雪の上を「歩ける!」、「面白い!」。衝撃でした。
 でもそれは当然のことで、スキーはもともと雪上を移動するために生み出された、生活で使う道具だったんですからね。テレマークは、そんなスキーの原点である歩く機能が残された道具なんです。
新雪の森の中を移動したり山に入るのに、テレマークほどふさわしい道具はありません。スピードも出るし、その軽快さはスノーシューの比ではないんです。テレマークスキーを履けば、縦横無尽に山を動き回れます。ニセコだけに限らず、そもそも日本の冬にとっても合ったスキーだと思います。
 
 
 やればやるほど上達して、滑れば滑るほど虜(とりこ)になった。ちょうど道具もどんどん変化していた時代でした。さらにニセコには、山本由起男さんや深町計彦さんという、日本のテレマークスキーの先頭を切りひらいている人がいました。滑る度に、もっとうまくなりたい! と心から思わされました。そのうちレースにも出るようになって、テレマークひと筋になっていったのです。
 レースは技術の頂点をめざす世界ですから、うまくなる動機づけとしてはこれ以上のものはありません。本州のレースにも出て、コンスタントに上位入賞できるようになりました。
 でも遠征の費用はもちろん自腹。居酒屋のバイトは午後3時くらいにはじまって、最後の片付けから解放されるのは、午前2時くらい。それでも翌朝、リフトが動きはじめる朝一から滑っていました。キツイとかつらいとか、そんなこともちろんまったく思いもしなかった(笑)。もっと滑りたい、もっとうまくなりたい! それだけです。
 ワールドカップや世界選手権など国際レースに出るようにもなったのですが、世界レベルには到底敵いませんでした。
 そんなときです。ナベさん(写真家の渡辺洋一氏)から、「アラスカにいっしょに来ないか」と誘われました。迷わず「行きたい!」と応えました。
 実際行ってみると、全てのスケールがまったくちがい、日本では味わうことの出来ない、冒険的で圧倒的なスリルと興奮がありました。自分が求めるテレマークスキーの世界が見つけられたような気がしました。それは、今の僕につながるスキーとの出会いです。それからアラスカには6度も通いました。
 
 その一方で、海外で滑りニセコに戻る度に、ニセコの素晴らしさを再認識するようになりました。平地の森にも雪が積もり滑れる。世界的に見ると、雪といえばあくまで森林限界を超えたような標高の高い険しい土地に降るもので、日本がとても特殊な環境だということに気付くようになりました。特にニセコは抜群な雪の量と質、滑るのに最適な斜面に恵まれてるのですから。
 
 ニセコという素晴らしい環境があったからこそ、滑るようになり、そしてテレマークスキーにのめり込み、世界が広がって行った。そんな自らを虜にした、ニセコの素晴らしさを伝えて行きたいという思いから、ガイドやスクールの仕事「TOYRU(トイル)」を立ち上げたのは今から11年程前。
 2003年には、ガイドやスクールの事務所を兼ねて、このショップを作りました。たくさんの仲間たちに手伝ってもらって、ひと月で手作りました。
 
 2006年には、ニセコ地域のスキーガイドたちが集まり「ニセコウィンターガイド協会」(NWGA)を作りました。僕が代表を務めています。ニセコに来てくださる方々に安全に楽しんで行ってもらうために、ルールやマナーの普及に取り組みながら、地域との連携を図る活動を行っています。
 
 ニセコは自信をもって、世界中のスキーヤーに自慢できる場所です。ここに根を張って暮らしている僕たちは、ニセコをさらにもっと良くしていきたいと、心から思っています。目先のことを考えるのではなく、本当にここにしかない価値を大切にして育んでいかなくてはなりません。
 ニセコの原点であり最大の財産は、雪と山の魅力です。このことを、これからさらにしっかりと発信していかなければ、と思っています。